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元明天皇展(平城宮跡~いざない館)2020年10月3日~11月30日

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元明天皇展

 

天智天皇・天武天皇・持統天皇~

聖武天皇 の間を繋いだ女帝で

飛鳥時代~奈良時代を代表する

上記天皇に比較し目立たない存在ですが

天武天皇>持統天皇 の意志を継ぎ

和同開珎を発行

藤原京から平城京への遷都を行い

「古事記」を完成させ

「風土記」を完成させるなど

数々の業績を残し

創成期の日本の国創りをまとめました。

今回の企画展はこの

元明天皇(阿閇皇女)の生涯にスポットを当て

地元奈良のイラストレーター上村恭子さん

のイラストとゆかりの地の写真とで

パネル展示したものです。

 

第一章 誕生から結婚までの時代…

 

① 阿閇皇女(あへのひめみこ)の生まれた時代

阿閇皇女(後の元明天皇)は

斉明天皇(中大兄皇子の母)の時代

父・中大兄皇子(後の天智天皇)と

母・姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)

の間に生まれた皇女で

ちょうど朝鮮半島で倭国の親交国・百済が

唐&新羅連合軍 に滅ぼされ

倭国は百済の要請を受け百済復興の為に

大陸出兵の準備を進めているところでした。

斉明天皇・中大兄皇子・大海皇子らも

遠征軍と共に九州に滞在していましたが

阿閇皇女が生まれた661年(飛鳥時代)

斉明天皇が九州で崩御しその2年後には

白村江の戦いで倭国は唐&新羅連合に

大敗を喫し大陸との緊張感が最高潮に

高まっていた時代です。

 

 

② 近江大津宮への遷都

斉明天皇崩御後しばらく

中大兄皇子は即位しませんでしたが

白村江での大敗の後、唐の侵略を警戒し

九州から飛鳥間の防御を固め

667年 都を飛鳥から近江大津へと

遷都することを決めます。

そして翌年 668年

中大兄皇子は天智天皇として即位しますが

阿閇皇女も両親と共に近江にいたと考思われます。

天智天皇は日本初の戸籍「庚午年籍」の作成や

漏刻(水時計)を置いて鐘や鼓で時刻を知らせ

時間の概念を生活や国の仕事に取入れました。

 

近江大津宮があった場所は1974年の発掘調査で

大規模な掘立柱建物跡が見つかった錦織遺跡

確実視されており遺跡の一部は国指定史跡として

保存されています。

 

 

③ 壬申の乱

671年 天智天皇が崩御すると皇位継承を巡り

壬申の乱が勃発します。

阿閇皇女にとっては近江朝を継いだ異母兄

大友皇子叔父・大海皇子の争いです。

阿閇皇女はこの時11歳。

母方の蘇我家は多くの娘を天智天皇に嫁がせており

外戚となった蘇我家は近江朝で活躍していました。

一方で天智天皇は蘇我家との間に生まれた娘を

4人も大海人皇子に嫁がせており

異母姉の鸕野讚良(後の持統天皇)は大海人に

付き従っています。

争いは大海人皇子が勝利し都を再び飛鳥浄御原宮

へと遷都し天武天皇として即位しました。

阿閇もまた遷都と共に奈良へ居を移したと思われます。

 

 

④ 伊勢参拝

即位前の阿閇皇女の数少ない記録の1つに

675年2月 十市皇女と共に伊勢神宮に参赴する

という記録があります。

前年674年10月 天武天皇と太田皇女の娘で

阿閇と同い年の大来皇女(おおくのひめみこ)

斎王として伊勢神宮に仕えていました。

 

十市皇女は天武天皇と額田王の娘で

弘文天皇(大友皇子)の正妃ですが

この伊勢参りの3年後

678年 病で突然死しています。

「万葉集」に十市皇女が伊勢神宮に詣でた際

波多の横山の巌を見て吹芡刀自(ふきのとじ)

~<阿閇・十市に随行した歌人>

が詠んだという歌が残っています。

 

河上の ゆつ岩群に 草生さず

  常にもがもな 常処女にて

 

川のほとりの神々し岩の郡に草が生えず

清らかなように、いつまでも変わらずに

いたいものです。永遠の乙女のままで。

 

 

⑤ 草壁皇子との結婚

時期は不明ですが阿閇皇女は

天武天皇と鸕野讚良皇女(後の持統天皇)の皇子

で1歳年下の草壁皇子と結婚しています。

680年に氷高皇女(後の元正天皇)

683年に珂瑠皇子(後の文武天皇)

もう1人後に長屋王の妻になる

吉備皇女を出産しています。

 

681年2月 夫・草壁が皇太子になったため

阿閇は皇太子妃になります。

 

第二章 元明天皇即位まで

 

① 夫・草壁皇子  薨去

686年 天武天皇が病で崩御します。

次期天皇は皇太子となっていた草壁皇子が

有力でしたが天武の埋蔵が終わった4ヶ月後

草壁は28歳で急逝してしまいます。

1つ年上の阿閇はこの時29歳

息子の珂瑠はわずか7歳でした。

 

草壁皇子の死因は不明ですが

「万葉集」には柿本人麻呂のほか

草壁の舎人達が死を悼んで作った挽歌が

23首も残されており

草壁を慕っていた人たちの悲しみが伝わって来ます。

 

 

② 紀伊の勢能山

夫・草壁皇子亡き後

天武天皇の皇后・鸕野讚良皇女

持統天皇として即位します。

690年 持統天皇の紀伊行幸に同行していた

阿閇の歌が「万葉集」に残っています。

 

これやこの 大和にしては 我が恋ふる

紀伊路にありといふ 名に負う背の山

 

これこそまさに大和にあって私が一目見たい

と思っていた紀伊路にある有名な背の山

なのですね

「背」は「兄」の意味で

夫や恋人など親しい男性へ呼びかける言葉です。

山の名の「せ」の響きに亡くなった夫の事を

思い出し歌を詠んだのかもしれません。

 

 

③ 藤原京と息子・文武天皇の治世

694年 持統天皇は都を藤原京へ遷都

697年 阿閇の息子・珂瑠皇子(15歳)に譲位し

文武天皇とし、自分は太上天皇となり後見します。

 

文武の治世の主な実績は

「大宝律令」の施行や32年ぶりの遣唐使派遣の他

藤原京の時代は疫病や自然災害が非常に多く

薬や物資の支給や税の一部免除をするなどの

対応に追われていました。

 

 

④ 皇太妃としての阿閇皇女

藤原京から「皇太妃宮職解…慶雲元年」

と書かれた木簡が発見されています。

701年 に施行された大宝律令に照らせば

この皇太妃は文武天皇の生母・阿閇の事です。

ここから持統天皇崩御後の阿閇は

皇后に準ずる権限と経済基盤を有していたと

思われます。

持統・文武時代の阿閇の活動歴を示す史料は

少ないのですが、立場から見て

まだ若い文武を補佐していたと思われます。

 

 

⑤ 文武天皇の崩御と元明天皇の即位

706年11月 文武天皇は病床に臥し療養の為

母・阿閇皇女に譲位の意向を伝えますが

阿閇はそれを固辞し続けます。

しかし翌年6月に文武天皇が25歳で崩御し

文武の夫人・藤原宮子との間の子・首皇子

(おびとのみこ―後の聖武天皇)はまだ7歳の為

夫に続き息子にも先立たれた阿閇は

47歳でついに元明天皇として即位を決意します。

 

 

第三章 元明天皇の治世

 

① 和銅の発見と和同開珎

708年正月 武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)から

精錬を必要としない銅が献上されました。

元明天皇は非常に喜び年号を和銅に改元。

翌2月に貨幣鋳造の役職「催鋳銭司」

(さいじゅせんし)を設置し同年内に最初の

和同開珎を鋳造・仕様させています。

銭の概念を民に理解させるため銭の貯蓄や

銭を使った売買をするよう詔を出し

711年には銭を蓄えた者に位を授ける

「畜銭叙位令」(ちくせんじょいれい)を施行し

一方偽銭の鋳造には厳罰をもって臨みました。

 

和同開珎は全国で多数出土しており

流通貨幣として一定の成功を収めたと思われます。

 

 

② 平城京遷都の詔

708年2月15日 元明天皇は平城遷都の詔を発します。

平城の地は四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の方角に

応じた地相に一致しており周囲を囲む三山が鎮護の形

をなし亀甲や筮竹(ぜいちく)による占いにも適って

いるのでここに都ゆうを建てるべきである

との内容で、遷都先について言及したのは

これが恥じ初めてとなり、これ以降造営に関する

記録が増えていることからもこの詔をもって

新都の造営が本格的に始まったと思われます。

 

 

③ 造営地への行幸

708年9月 元明天皇は菅原(奈良市菅原町)

へ行幸し自ら地形を見たり地元への根回しを

行っています。

その後も造営地からの民家の移転

造平城京司の任命、伊勢神宮への新京造営の報告

地鎮祭など、遷都事業を進めて行きました。

一方で免税を行ったり造営中の平城京に行幸し

人民を直接ねぎらったりと

遷都事業により動揺している人々への配慮も

忘れませんでした。

 

 

④ 元明天皇の大嘗祭(だいじょうさい)

毎年秋に行われる宮中祭祀「新嘗祭」

天皇が即位した年は「大嘗祭」になります。

元明天皇の大嘗祭は707年(和同元年)11月

でした。 この時詠んだ歌が「万葉集」

残っています。

ますらをの 鞆の音すなり もののふの

大臣楯(おほまえつきたて)立つらしも

武人たちの鞆の音が聞こえる。

将軍たちが楯を立てて威儀を正してるらしい

 

この大嘗祭の4日後に

豊明節会(とものあかりのせちえ)という酒宴

があり、元明は縣犬養三千代の忠誠に対し

橘宿禰(たちばなのすくね)姓を名乗る事を許し

酒杯に浮かべた橘を下賜しています。

 

 

⑤ 平城遷都

710年 平城京遷都

遷都時の平城宮はまだ完成していませんでした。

711年5月に発令された

平城宮の垣は未完成で防御が不十分の為対策する

との詔などから遷都後も造営が続いていたようです。

 

 

⑥ 古事記 献上

「古事記」は神代から推古天皇までを記す歴史書ですが

その序文には天武天皇が舎人の稗田阿礼(ひえだのあれ)

に歴史や系譜を覚えさせていたものを

711年 に元明天皇が指示して太安万侶(おおのやすまろ)

に筆録させ 712年 に献上されたと書かれています。

 

 

⑦ 地誌「風土記」と国史の編集を命じる

713年5月 元明天皇は

土地の名産の種類・土地の肥沃の程度・地名の由来

昔からの言い伝えや変わったことを記載して報告する事

を命じ、諸国から地誌が提出されたとみられます。

現存する完本「出雲国風土記」は巻末に733年の

日付があります。

元明天皇が関わったとされる「古事記」「日本書紀」

「風土記」は古代日本を知る手掛かりとして欠かせない

多くの史料を残しています。

 

 

⑧ 甕原離宮(みかのはらりきゅう)

元明天皇は在位中に4度 甕原離宮に行幸しました。

この離宮が文献上に初めて登場するのは713年の

元明天皇の行幸です。

甕原離宮は木津川の南岸・京都府木津川市加茂町

法花寺野が推定地ですが、遺構は見つかっていません。

後に孫の聖武天皇が対岸に恭仁京を造り遷都しています。

この他同じ木津川沿いには岡田離宮があり

元明天皇は平城京造営準備の為に藤原京から行幸した際

滞在しています。

岡田鴨神社(木津川市加茂町北)が伝承知です。

 

 

⑨ 元明天皇最後の朝賀の儀

715年元日 元明天皇は朝賀の儀を行いました。

平城宮の大極殿で行われた最初の朝賀の儀で

遷都後も建設中だった大極殿はこの頃までに完成

したものと思われます。

元明天皇が在位中に臨んだ最後の、そして孫の

首(おびとの)が皇太子として礼服を着用し

初参加した朝賀でした。

様々な事業に目途がつき後継者が安定したこの年

元明天皇は退位します。

 

 

第四章 退位から崩御

 

① 元明天皇の退位

715年 元明天皇は

皇太子・首皇子(聖武天皇)が15歳と年若い

ことから36歳の娘・氷高内親王に譲位し

(元正天皇として即位)

元明天皇は太上天皇となります。

譲位の詔には

「天下を治め万人を慈しみ養うために

天の助けと先祖の徳の助けを借り朝から夜まで

それらを恐れ慎む心を怠ることなく

諸政に心を労すること9年。

静かでのどかな境地を求めて

風や雲の様にとらわれない世界に身を任せたい。

履物を脱ぎ捨てるように俗を離れたい」

と、国と民に尽くした

元明天皇の苦労がにじみ出ています。

 

 

② 娘・元正天皇が継いだ事業

元明天皇が指示した仕事の中には

元正天皇(在位:715~724年)の時代に

実を結んだものがあります。

・「日本書紀」「風土記」の完成

・浮浪人対策:浮浪民を戸籍に入れ雑穀の

栽培を推奨するなど

・国郡の設置:出羽の国へ人民の移住

高麗郡、諏方国など国郡の新設

 

 

③ 薄葬の遺詔

退位して約6年後の721年10月

病に伏した元明太上天皇は長屋王と藤原房前

を呼び葬儀の遺言をしています。

「佐保山の峰に火葬し他に移さない事

天皇や官人は通常と同じように政務を行う事」

と類を見ない薄葬を指示し、さらに3日後再び

必ず前の詔に従う事

棺を運ぶ車は簡素なものに

墓には常緑樹を植え文字を刻んだ碑を建てよ

と念を押しています。

 

 

④ 元明太上天皇の崩御

721年12月 元明太上天皇は重篤な状態となり

元正天皇は経を上げさせ回復を祈りましたが

翌日平城宮の中安殿で崩御、61歳でした。

遺言に従い崩御から6日後

椎山陵に葬られました。

同じく薄葬を命じた持統天皇は

崩御から1年後・文武天皇は5か月後なので

これは異例の早さです。

御陵造営の担当者は万葉歌人としても知られる

大伴旅人(おおとものたびと)です。

 

 

第五章 その後の元明天皇

 

① 娘・元正天皇による一周忌供養

722年 元正天皇は母・元明天皇の

一周忌供養の詔を出しました。

その悲しみは深く

「残された宝鏡を抱きみては

痛恨の思いが心を離れず

身に着けておられた衣冠につつしんで仕え

生涯消えない憂いが長く心にまといつく」

と述べるほどでした。

母の供養に経典を写経させ

潅頂幡(かんじょうばん)など仏具をつくり

僧尼数千人を招き食事を供し斎会を設けました。

大安寺と法隆寺の

「伽藍縁起 井 流記資財帳」には

この時奉納された仏具の明細が記されています。

 

 

② 娘・吉備皇女による薬師寺東禅院の建立

奈良・西ノ京にある薬師寺は

天武天皇が発願し持統天皇が現在の橿原市

本薬師寺の場所に創建した寺院ですが

718年 に元明太上天皇が平城京に移した

とされています。

薬師寺では天武・持統・元明の3人が本願

(創建の願主)に数えられています。

また717年~724年に元明天皇のために

娘の吉備皇女が東禅院を造立したと

伝えられています。

これは現在の薬師寺・東院堂を指します

(現在の建物は鎌倉時代再建のもの)

 

 

 

 

場所

平城宮跡 いざない館(企画展示室)

 

 

開館時間

10:00~18:00(入館17:30まで)

 

 

休館日

月曜日(祝日の場合は翌日)

 

 

入館料

無料

 

 

住所・TEL

〒630-8012

奈良市二条大路南3丁目5番1号

0742-36-8780

 

 

アクセス

近鉄大和西大寺から玉手門経由で徒歩20分

近鉄奈良駅/JR奈良駅西口から奈良交通バス

学園前駅行にて「朱雀門ひろば前」下車

 

 

駐車場

朱雀門ひろば横・交通ターミナル駐車場

 

 

>>平城宮跡歴史公園

 

 

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