元明天皇展
天智天皇・天武天皇・持統天皇~
聖武天皇 の間を繋いだ女帝で
飛鳥時代~奈良時代を代表する
上記天皇に比較し目立たない存在ですが
天武天皇>持統天皇 の意志を継ぎ
和同開珎を発行し
藤原京から平城京への遷都を行い
「古事記」を完成させ
「風土記」を完成させるなど
数々の業績を残し
創成期の日本の国創りをまとめました。
今回の企画展はこの
元明天皇(阿閇皇女)の生涯にスポットを当て
地元奈良のイラストレーター上村恭子さん
のイラストとゆかりの地の写真とで
パネル展示したものです。
第一章 誕生から結婚までの時代…
① 阿閇皇女(あへのひめみこ)の生まれた時代
阿閇皇女(後の元明天皇)は
斉明天皇(中大兄皇子の母)の時代
父・中大兄皇子(後の天智天皇)と
母・姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
の間に生まれた皇女で
ちょうど朝鮮半島で倭国の親交国・百済が
唐&新羅連合軍 に滅ぼされ
倭国は百済の要請を受け百済復興の為に
大陸出兵の準備を進めているところでした。
斉明天皇・中大兄皇子・大海皇子らも
遠征軍と共に九州に滞在していましたが
阿閇皇女が生まれた661年(飛鳥時代)
斉明天皇が九州で崩御しその2年後には
白村江の戦いで倭国は唐&新羅連合に
大敗を喫し大陸との緊張感が最高潮に
高まっていた時代です。
② 近江大津宮への遷都
斉明天皇崩御後しばらく
中大兄皇子は即位しませんでしたが
白村江での大敗の後、唐の侵略を警戒し
九州から飛鳥間の防御を固め
667年 都を飛鳥から近江大津へと
遷都することを決めます。
そして翌年 668年
中大兄皇子は天智天皇として即位しますが
阿閇皇女も両親と共に近江にいたと考思われます。
天智天皇は日本初の戸籍「庚午年籍」の作成や
漏刻(水時計)を置いて鐘や鼓で時刻を知らせ
時間の概念を生活や国の仕事に取入れました。
近江大津宮があった場所は1974年の発掘調査で
大規模な掘立柱建物跡が見つかった錦織遺跡が
確実視されており遺跡の一部は国指定史跡として
保存されています。
③ 壬申の乱
671年 天智天皇が崩御すると皇位継承を巡り
壬申の乱が勃発します。
阿閇皇女にとっては近江朝を継いだ異母兄
大友皇子と叔父・大海皇子の争いです。
阿閇皇女はこの時11歳。
母方の蘇我家は多くの娘を天智天皇に嫁がせており
外戚となった蘇我家は近江朝で活躍していました。
一方で天智天皇は蘇我家との間に生まれた娘を
4人も大海人皇子に嫁がせており
異母姉の鸕野讚良(後の持統天皇)は大海人に
付き従っています。
争いは大海人皇子が勝利し都を再び飛鳥浄御原宮
へと遷都し天武天皇として即位しました。
阿閇もまた遷都と共に奈良へ居を移したと思われます。
④ 伊勢参拝
即位前の阿閇皇女の数少ない記録の1つに
675年2月 十市皇女と共に伊勢神宮に参赴する
という記録があります。
前年674年10月 天武天皇と太田皇女の娘で
阿閇と同い年の大来皇女(おおくのひめみこ)が
斎王として伊勢神宮に仕えていました。
十市皇女は天武天皇と額田王の娘で
弘文天皇(大友皇子)の正妃ですが
この伊勢参りの3年後
678年 病で突然死しています。
「万葉集」に十市皇女が伊勢神宮に詣でた際
波多の横山の巌を見て吹芡刀自(ふきのとじ)
~<阿閇・十市に随行した歌人>
が詠んだという歌が残っています。
河上の ゆつ岩群に 草生さず
常にもがもな 常処女にて
川のほとりの神々し岩の郡に草が生えず
清らかなように、いつまでも変わらずに
いたいものです。永遠の乙女のままで。
⑤ 草壁皇子との結婚
時期は不明ですが阿閇皇女は
天武天皇と鸕野讚良皇女(後の持統天皇)の皇子
で1歳年下の草壁皇子と結婚しています。
680年に氷高皇女(後の元正天皇)を
683年に珂瑠皇子(後の文武天皇)と
もう1人後に長屋王の妻になる
吉備皇女を出産しています。
681年2月 夫・草壁が皇太子になったため
阿閇は皇太子妃になります。
第二章 元明天皇即位まで
① 夫・草壁皇子 薨去
686年 天武天皇が病で崩御します。
次期天皇は皇太子となっていた草壁皇子が
有力でしたが天武の埋蔵が終わった4ヶ月後
草壁は28歳で急逝してしまいます。
1つ年上の阿閇はこの時29歳
息子の珂瑠はわずか7歳でした。
草壁皇子の死因は不明ですが
「万葉集」には柿本人麻呂のほか
草壁の舎人達が死を悼んで作った挽歌が
23首も残されており
草壁を慕っていた人たちの悲しみが伝わって来ます。
② 紀伊の勢能山
夫・草壁皇子亡き後
天武天皇の皇后・鸕野讚良皇女が
持統天皇として即位します。
690年 持統天皇の紀伊行幸に同行していた
阿閇の歌が「万葉集」に残っています。
これやこの 大和にしては 我が恋ふる
紀伊路にありといふ 名に負う背の山
これこそまさに大和にあって私が一目見たい
と思っていた紀伊路にある有名な背の山
なのですね
「背」は「兄」の意味で
夫や恋人など親しい男性へ呼びかける言葉です。
山の名の「せ」の響きに亡くなった夫の事を
思い出し歌を詠んだのかもしれません。
③ 藤原京と息子・文武天皇の治世
694年 持統天皇は都を藤原京へ遷都し
697年 阿閇の息子・珂瑠皇子(15歳)に譲位し
文武天皇とし、自分は太上天皇となり後見します。
文武の治世の主な実績は
「大宝律令」の施行や32年ぶりの遣唐使派遣の他
藤原京の時代は疫病や自然災害が非常に多く
薬や物資の支給や税の一部免除をするなどの
対応に追われていました。
④ 皇太妃としての阿閇皇女
藤原京から「皇太妃宮職解…慶雲元年」
と書かれた木簡が発見されています。
701年 に施行された大宝律令に照らせば
この皇太妃は文武天皇の生母・阿閇の事です。
ここから持統天皇崩御後の阿閇は
皇后に準ずる権限と経済基盤を有していたと
思われます。
持統・文武時代の阿閇の活動歴を示す史料は
少ないのですが、立場から見て
まだ若い文武を補佐していたと思われます。
⑤ 文武天皇の崩御と元明天皇の即位
706年11月 文武天皇は病床に臥し療養の為
母・阿閇皇女に譲位の意向を伝えますが
阿閇はそれを固辞し続けます。
しかし翌年6月に文武天皇が25歳で崩御し
文武の夫人・藤原宮子との間の子・首皇子
(おびとのみこ―後の聖武天皇)はまだ7歳の為
夫に続き息子にも先立たれた阿閇は
47歳でついに元明天皇として即位を決意します。
第三章 元明天皇の治世
① 和銅の発見と和同開珎
708年正月 武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)から
精錬を必要としない銅が献上されました。
元明天皇は非常に喜び年号を和銅に改元。
翌2月に貨幣鋳造の役職「催鋳銭司」
(さいじゅせんし)を設置し同年内に最初の
和同開珎を鋳造・仕様させています。
銭の概念を民に理解させるため銭の貯蓄や
銭を使った売買をするよう詔を出し
711年には銭を蓄えた者に位を授ける
「畜銭叙位令」(ちくせんじょいれい)を施行し
一方偽銭の鋳造には厳罰をもって臨みました。
和同開珎は全国で多数出土しており
流通貨幣として一定の成功を収めたと思われます。
② 平城京遷都の詔
708年2月15日 元明天皇は平城遷都の詔を発します。
平城の地は四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の方角に
応じた地相に一致しており周囲を囲む三山が鎮護の形
をなし亀甲や筮竹(ぜいちく)による占いにも適って
いるのでここに都ゆうを建てるべきである
との内容で、遷都先について言及したのは
これが恥じ初めてとなり、これ以降造営に関する
記録が増えていることからもこの詔をもって
新都の造営が本格的に始まったと思われます。
③ 造営地への行幸
708年9月 元明天皇は菅原(奈良市菅原町)
へ行幸し自ら地形を見たり地元への根回しを
行っています。
その後も造営地からの民家の移転
造平城京司の任命、伊勢神宮への新京造営の報告
地鎮祭など、遷都事業を進めて行きました。
一方で免税を行ったり造営中の平城京に行幸し
人民を直接ねぎらったりと
遷都事業により動揺している人々への配慮も
忘れませんでした。
④ 元明天皇の大嘗祭(だいじょうさい)
毎年秋に行われる宮中祭祀「新嘗祭」は
天皇が即位した年は「大嘗祭」になります。
元明天皇の大嘗祭は707年(和同元年)11月
でした。 この時詠んだ歌が「万葉集」に
残っています。
ますらをの 鞆の音すなり もののふの
大臣楯(おほまえつきたて)立つらしも
武人たちの鞆の音が聞こえる。
将軍たちが楯を立てて威儀を正してるらしい
この大嘗祭の4日後に
豊明節会(とものあかりのせちえ)という酒宴
があり、元明は縣犬養三千代の忠誠に対し
橘宿禰(たちばなのすくね)姓を名乗る事を許し
酒杯に浮かべた橘を下賜しています。
⑤ 平城遷都
710年 平城京遷都
遷都時の平城宮はまだ完成していませんでした。
711年5月に発令された
平城宮の垣は未完成で防御が不十分の為対策する
との詔などから遷都後も造営が続いていたようです。
⑥ 古事記 献上
「古事記」は神代から推古天皇までを記す歴史書ですが
その序文には天武天皇が舎人の稗田阿礼(ひえだのあれ)
に歴史や系譜を覚えさせていたものを
711年 に元明天皇が指示して太安万侶(おおのやすまろ)
に筆録させ 712年 に献上されたと書かれています。
⑦ 地誌「風土記」と国史の編集を命じる
713年5月 元明天皇は
土地の名産の種類・土地の肥沃の程度・地名の由来
昔からの言い伝えや変わったことを記載して報告する事
を命じ、諸国から地誌が提出されたとみられます。
現存する完本「出雲国風土記」は巻末に733年の
日付があります。
元明天皇が関わったとされる「古事記」「日本書紀」
「風土記」は古代日本を知る手掛かりとして欠かせない
多くの史料を残しています。
⑧ 甕原離宮(みかのはらりきゅう)
元明天皇は在位中に4度 甕原離宮に行幸しました。
この離宮が文献上に初めて登場するのは713年の
元明天皇の行幸です。
甕原離宮は木津川の南岸・京都府木津川市加茂町
法花寺野が推定地ですが、遺構は見つかっていません。
後に孫の聖武天皇が対岸に恭仁京を造り遷都しています。
この他同じ木津川沿いには岡田離宮があり
元明天皇は平城京造営準備の為に藤原京から行幸した際
滞在しています。
岡田鴨神社(木津川市加茂町北)が伝承知です。
⑨ 元明天皇最後の朝賀の儀
715年元日 元明天皇は朝賀の儀を行いました。
平城宮の大極殿で行われた最初の朝賀の儀で
遷都後も建設中だった大極殿はこの頃までに完成
したものと思われます。
元明天皇が在位中に臨んだ最後の、そして孫の
首(おびとの)が皇太子として礼服を着用し
初参加した朝賀でした。
様々な事業に目途がつき後継者が安定したこの年
元明天皇は退位します。
第四章 退位から崩御
① 元明天皇の退位
715年 元明天皇は
皇太子・首皇子(聖武天皇)が15歳と年若い
ことから36歳の娘・氷高内親王に譲位し
(元正天皇として即位)
元明天皇は太上天皇となります。
譲位の詔には
「天下を治め万人を慈しみ養うために
天の助けと先祖の徳の助けを借り朝から夜まで
それらを恐れ慎む心を怠ることなく
諸政に心を労すること9年。
静かでのどかな境地を求めて
風や雲の様にとらわれない世界に身を任せたい。
履物を脱ぎ捨てるように俗を離れたい」
と、国と民に尽くした
元明天皇の苦労がにじみ出ています。
② 娘・元正天皇が継いだ事業
元明天皇が指示した仕事の中には
元正天皇(在位:715~724年)の時代に
実を結んだものがあります。
・「日本書紀」「風土記」の完成
・浮浪人対策:浮浪民を戸籍に入れ雑穀の
栽培を推奨するなど
・国郡の設置:出羽の国へ人民の移住
高麗郡、諏方国など国郡の新設
③ 薄葬の遺詔
退位して約6年後の721年10月
病に伏した元明太上天皇は長屋王と藤原房前
を呼び葬儀の遺言をしています。
「佐保山の峰に火葬し他に移さない事
天皇や官人は通常と同じように政務を行う事」
と類を見ない薄葬を指示し、さらに3日後再び
必ず前の詔に従う事
棺を運ぶ車は簡素なものに
墓には常緑樹を植え文字を刻んだ碑を建てよ
と念を押しています。
④ 元明太上天皇の崩御
721年12月 元明太上天皇は重篤な状態となり
元正天皇は経を上げさせ回復を祈りましたが
翌日平城宮の中安殿で崩御、61歳でした。
遺言に従い崩御から6日後
椎山陵に葬られました。
同じく薄葬を命じた持統天皇は
崩御から1年後・文武天皇は5か月後なので
これは異例の早さです。
御陵造営の担当者は万葉歌人としても知られる
大伴旅人(おおとものたびと)です。
第五章 その後の元明天皇
① 娘・元正天皇による一周忌供養
722年 元正天皇は母・元明天皇の
一周忌供養の詔を出しました。
その悲しみは深く
「残された宝鏡を抱きみては
痛恨の思いが心を離れず
身に着けておられた衣冠につつしんで仕え
生涯消えない憂いが長く心にまといつく」
と述べるほどでした。
母の供養に経典を写経させ
潅頂幡(かんじょうばん)など仏具をつくり
僧尼数千人を招き食事を供し斎会を設けました。
大安寺と法隆寺の
「伽藍縁起 井 流記資財帳」には
この時奉納された仏具の明細が記されています。
② 娘・吉備皇女による薬師寺東禅院の建立
奈良・西ノ京にある薬師寺は
天武天皇が発願し持統天皇が現在の橿原市
本薬師寺の場所に創建した寺院ですが
718年 に元明太上天皇が平城京に移した
とされています。
薬師寺では天武・持統・元明の3人が本願
(創建の願主)に数えられています。
また717年~724年に元明天皇のために
娘の吉備皇女が東禅院を造立したと
伝えられています。
これは現在の薬師寺・東院堂を指します
(現在の建物は鎌倉時代再建のもの)
場所
平城宮跡 いざない館(企画展示室)
開館時間
10:00~18:00(入館17:30まで)
休館日
月曜日(祝日の場合は翌日)
入館料
無料
住所・TEL
〒630-8012
奈良市二条大路南3丁目5番1号
0742-36-8780
アクセス
近鉄大和西大寺から玉手門経由で徒歩20分
近鉄奈良駅/JR奈良駅西口から奈良交通バス
学園前駅行にて「朱雀門ひろば前」下車
駐車場
朱雀門ひろば横・交通ターミナル駐車場