飛鳥時代の歴代天皇!!

 

 

 

古墳時代(後期)…

 

539年 欽明天皇(第29代)/推古天皇の父

572年 敏達天皇(第30代)/推古天皇の夫

585年 用明天皇(第31代)/聖徳太子の父

588年 崇峻天皇(第32代)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

飛鳥時代(592年~710年)の歴代天皇

 

592年 推古天皇(第33代)女性

飛鳥小墾田宮

629年 舒明天皇(第34代)

(百済宮)

642年 皇極天皇(第35代)女性

飛鳥板蓋宮

645年 孝徳天皇(第36代)

難波宮

655年 斉明天皇(第37代)=皇極天皇女性

飛鳥板蓋宮

(飛鳥川原宮)

飛鳥後岡本宮

(飛鳥田中宮)

朝倉橘広庭宮

668年 天智天皇(第38代)

近江大津宮

671年 弘文天皇(第39代)

近江大津宮

673年 天武天皇(第40代)

飛鳥浄御原宮

694年 持統天皇(第41代)女性

飛鳥浄御原宮・藤原宮

697年 文武天皇(第42代)

藤原京

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

592年 推古天皇(第33代)/額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)

父)欽明天皇・母)蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)

夫)敏達天皇(異母兄)

子)菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)

子)竹田皇子

子)小墾田皇女(おはりだのひめみこ)

子)尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)

子)田眼皇女(舒明天皇妃)

子)桜井弓張皇女(来目皇子妃)

用明天皇の同母妹/崇峻天皇の異母姉

蘇我馬子の姪

 

用明天皇崩御後

587年丁未の乱(ていびのらん)が勃発

蘇我氏が物部氏を滅ぼした後

異母弟の泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位しますが

蘇我馬子の傀儡であることに不満を持ち

馬子に暗殺されてしまいます。

その後馬子に推されたのが馬子の姪にあたる

額田部皇女/推古天皇(初の女帝)です。

 

推古天皇は馬子の思惑が分かっていたため

甥の厩戸の皇子(聖徳太子)を摂政にする事を

条件に即位したと言われています。

593年 厩戸皇子を摂政とし(20歳)

厩戸皇子・蘇我馬子と共に隋の文化や政治制度

を積極的に取り入れ

仏教を柱とした国家の基礎作りを行いました。

 

「日本書紀」によると推古天皇は

姿色(みかお)端麗(きらきら)しく

挙措動作は乱れなくととのっており…

となっており美しく賢い女性で

政治感覚にも優れていた様です。

 

業績

厩戸皇子(聖徳太子)が中心となり

・仏教興隆の詔

・四天王寺建立

・施薬院(薬局)・療病院(病院)

・悲田院(貧人を救う施設)・敬田院(寺院)

をつくる

・遣隋使の派遣(第1回~3回)

・冠位十二階を制定

・憲法十七条を制定

・法隆寺建立

・天皇記/国記をつくる

 

推古天皇陵

〒583-0992 大阪府南河内郡太子町

 

 

629年 舒明天皇(第34代)/田村皇子

父)押坂彦人大兄皇子(敏達天皇皇子)

母)糠手姫皇女(敏達天皇皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)

皇后)宝姫王(皇極天皇)

子)葛城皇子/中大兄皇子(天智天皇)

子)間人皇女(孝徳天皇妃)

子)大海人皇子(天武天皇)

夫人)法提郎女(ほていのいらつめ・蘇我馬子の娘)

子)古人大兄皇子(吉野太子)

敏達天皇の孫

 

跡継ぎを決めていなかった推古天皇崩御の後

群臣は聖徳太子の子山背大兄王と

敏達天皇の孫の田村皇子に分かれます。

聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇亡きあと

政治の実権を握ったのは馬子の子蝦夷で

1説には庶民の人望も厚く有能な山背大兄王では

蘇我氏が思うように政治を行い難いため

田村皇子を即位させたともみられています。

 

業績

・第1回遣唐使を派遣

・百済大寺(大安寺)建立

 

舒明天皇陵

〒633-0005 奈良県桜井市大字忍阪556

 

642年 皇極天皇(第35代)宝皇女(たからのひめみこ)

父)茅渟王(敏達天皇の孫)

母)吉備姫王(欽明天皇の孫)

夫)舒明天皇

子)中大兄皇子(天智天皇)

子)間人皇女(孝徳天皇妃)

子)大海人皇子(天武天皇)

夫)高向王(用明天皇の孫)

子)漢皇子

 

舒明天皇妃(皇后)

中大兄皇子(天智天皇)

大海人皇子(天武天皇)の母

 

敏達天皇崩御後、継承者が定まらない為

49歳で皇后が皇位を継承しました。

しかし治世は舒明天皇のころから

蘇我蝦夷・入鹿親子が実権を握るようになり

舒明天皇が崩御すると横暴さは益々増大します。

 

蝦夷・入鹿は天皇の様な自分たちの陵(墓)

を創りはじめますが1豪族の墓をつくるために

一般の民を動員・さらには聖徳太子一族の領民

までかり出す有様で太子の娘・大娘姫王は

これに強く抗議しました。

また蝦夷は朝廷の許しを得ることなく

自分の官位(大臣)を勝手に入鹿に授けるなど

まるで蘇我氏が天皇であるかの様な行動を

とり始めます。

 

さらに入鹿は皇極天皇の次の継承者に

蘇我の血を引く古人大兄皇子

(舒明天皇の皇子)を擁立し

朝廷での権力を盤石にしようと考えますが

その為には人望が厚く有力な皇位継承者である

聖徳太子の皇子・山背大兄皇子が

邪魔になってきます。

 

643年 遂に入鹿は山背大兄王が住む斑鳩宮に軍

を向け山背大兄皇子一族を滅亡に追い込みます。

 

この行動の裏には

蘇我氏は渡来人との繋がりが強く

入鹿は大陸型の政治=力のある者が国を治める

といった意識が少なからずあり

さらにこうした蘇我氏の天皇のような振る舞いは

周りの豪族たち(蘇我の流れを汲む豪族までも)

から反感を買って孤立状態になりつつあった事

また大陸では唐が隋を滅ぼし

半島にまで勢力を伸ばして来たこともあり

早く倭国をまとめて大陸と向き合う体制を

とる必要があると考えていたため

自分が天皇に替わり事実上の実験を握り

多少強引にでも事を進めようとしたのではないか?

という見方もあります。

 

豪族・中臣氏の一族の鎌足は、蘇我蝦夷・入鹿の

坊弱無人な振る舞いに耐えかねてついに

蘇我氏打倒のクーデターを計画します。

鎌足は法興寺で蹴鞠をしている中大兄皇子が

靴を飛ばしたのを拾い皇子に捧げます。

この出会いがきっかけとなり二人は

蘇我氏を排除し

大王中心の中央集権国家を作ることで合意し

学問僧・南淵請安(みなみぶちのあやひと)

の私塾で共に大陸・半島の文化を学びつつ

蘇我氏打倒の計画を練ったとされています。

また鎌足は蘇我一族の蘇我倉山田石師麻呂も

同士に入れ石麻呂の娘・蘇我遠智娘を

中大兄皇子の妃にします。

 

645年 新羅・百済・高句麗から進貢の使者が

飛鳥板蓋宮に招く日、中大兄皇子と中臣鎌足が

皇極天皇の目前で蘇我入鹿を討ち

翌日 父・蘇我蝦夷が自害します(乙巳の変)

 

その翌日 皇極天皇は乙巳の変を起こした

息子・中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが

中大兄皇子は自分が天皇になるために

入鹿を殺害したと思われるのを避け

皇極の弟/中大兄皇子の叔父の軽皇子を推薦し

軽皇子が皇位を継承することになりました。

 

皇極(斉明)天皇陵

〒635-0143 奈良県高市郡高取町大字車木281

 

645年 孝徳天皇(第36代)/軽皇子

父)茅渟王(敏達天皇の孫)

母)吉備姫王(欽明天皇の孫)

皇后)間人皇女(姪/天智天皇の妹)

妃)小足媛(おたらしひめ・安倍内麻呂の娘)

子)有間皇子

妃)乳娘(ちのいつらめ・蘇我倉山田石川麻呂の娘)

 

皇極天皇の同母弟

天武天皇・間人皇女の叔父

 

乙巳の変の後 皇極天皇の譲位により

軽皇子が孝徳天皇として即位し

同時に中大兄皇子を皇太子に

阿部内麻呂を左大臣に

蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に

中臣鎌足を内臣にします。

これは実質的に中大兄皇子の政権となりました。

 

中大兄皇子は唐や新羅と共に友好を深め

大王を中心とした中央集権国家を作るべく

唐に留学していた旻・高向玄理らを

官人に起用し「大化の改新」に手を付けます。

 

手始めに大陸の使者が訪れ易いように

海の近くの難波に宮を作り(難波宮)

646年 孝徳天皇が改新の詔を発します。

 

①豪族私有の民と土地を国家のものとする

公地公民制

②中央と地方の支配制度・交通を整える事

大王が豪族をその長に任命し中央の役人にします。

役人派遣

有力豪族が貴族になり役人として

政治に参加するようになります。

③戸籍を作り国が民に土地(田)を貸す制度

班田収授(はんでんしゅうじゅ)

④新しい税制度の実施

祖:稲の取れ高の3%を国に治める

調:地方の特産物を国に治める

庸:年に十日都で働くか布を収める

 

 

そのころ大陸ではと新羅が同盟し

百済と高句麗の同盟と争っていました。

 

孝徳天皇と中大兄皇子は倭国が

唐と同盟を結ぶべきか

唐・百済どちらとも国交を続けるべきか

意見を違えます。

 

653年 中大兄皇子が宮を飛鳥へ戻すことを

進言しますが孝徳はこれを受け入れず

結果・中大兄皇子は母・皇極

孝徳の皇后で妹・間人皇女/弟・大海人皇子

と豪族たちを引き連れ飛鳥宮に戻ります。

 

臣下のほとんどが中大兄皇子に付いて

行ってしまった孝徳天皇は気を落とし

翌年 病にかかり亡くなってしまいます。

 

孝徳天皇陵

〒583-0992 大阪府南河内郡太子町大字山田

 

655年 斉明天皇(第37代)=皇極天皇

孝徳天皇崩御後

実権を握っている皇太子・中大兄皇子は

反対派を意識してまだ天皇には即位せず

母・皇極に斉明天皇として

再度即位してもらい(62歳)

皇太子で執政を行います。

 

660年 時百済から倭国に使者がきます。

百済が唐と新羅に滅ぼされますが

残った僅かな貴族が

復興・反撃の戦を仕掛けようとしている為

倭国に援軍を出してほしいとの事でした。

中大兄皇子・斉明天皇は半島に兵を送る事を決め

難波から筑紫(九州)朝倉宮へ向かいますが

筑紫に着いて2か月・斉明天皇が崩御します。

 

 

668年 天智天皇(第38代)/中大兄皇子

父)舒明天皇・母)皇極・斉明天皇

皇后)倭姫王(異母兄・古人大兄皇子の娘)

夫人)蘇我遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)

子)大田皇女(天武天皇妃)

子)鸕野讃良皇女(持統天皇)

子)建皇子

夫人)蘇我姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)

子)御名部皇女

子)阿閇皇女(草壁皇子妃/元明天皇)

嬪)蘇我常陸娘(蘇我赤兄の娘)

子)山辺皇女(大津皇子妃)

嬪)阿部橘娘倉(阿部倉梯麻呂の娘)

子)明日香皇女

子)新田部皇女(天武天皇妃)

夫人)越道君伊羅都女(こしのみちのいらつめ)

子)志貴皇子

采女)宅子娘(やかこのいつらめ)

子)大友皇子(弘文天皇)

宮人)忍海造色夫古娘(しのぶこのいつらめ)

子)川島皇子

子)大江皇女(天武天皇妃)

子)泉皇女(いずみのひめみこ)

宮人)栗隈黒媛娘(くろひめのいつらめ)

子)水主皇女(みぬしのひめみこ)

 

661年 斉明天皇崩御後

中大兄皇子はしばらく即位せず

大王不在の状況が続きます。

663年 各地から27,000の兵が集まり

阿部比羅夫を将軍に

いよいよ朝鮮半島(白村江)へ出港します。

倭国が百済復興に力を貸したのを知ると

唐・新羅軍は水軍7,000と兵は13万を派遣し

圧倒的な兵力の前に倭国は大敗しました。

 

中大兄皇子は百済救済をあきらめ

倭国国内の守りを固めるため各地に

山城や水城・狼煙台・防人(警備隊)を設置

さらに守りを固める為、都を飛鳥から

近江大津に移すことにしました。

 

667年 中大兄皇子は近江大津宮に遷都し

斉明天皇の葬儀を行い…

668年 天智天皇として即位しました。

しかし翌年忠臣であった中臣鎌足が亡くなり

鎌足にその功績を称え藤原の姓を与えます。

 

天智天皇は唐を習い

日本で初めての水時計をつくり

役人の勤務に時間の概念を取り入れたり

文書による伝達や記録を本格的に取り入れた

執務を実践します。

また税や兵の徴収を確かにするため

全国的な戸籍 庚午年籍 を作り民を管理し

国内の政治体制を確立していきます。

 

そのころ半島・大陸では唐・新羅軍が

百済に続き高句麗も滅ぼしてしまいます。

そしていよいよ倭国に攻めに来ると思いきや

唐は新羅と争い始め朝鮮半島の支配に

乗り出したのです。

 

そして国内では…

671年 天智天皇はその子・大友皇子を

太政大臣に任命します。

これは天智天皇の後継者は

共に乙巳の変を実行した大海人皇子ではなく

大友皇子であるという意志表示になります。

 

同年

天智天皇は病に倒れ病床に大海人皇子を呼び

自分が死んだら皇位継承するよう伝えます。

しかし大海人はこれを断り皇后を後見にし

大友皇子に継承する様進言。

自らはその日の内に出家し

妃や皇子・舎人を連れ吉野の離宮に移ります。

 

これは天智天皇が

大海人皇子の天皇への野心を試したのもので

これを察した大海人皇子は丁重に辞退し

都を離れ様子を見る事にしたと思われます。

 

同年末 天智天皇は崩御します。

 

 

業績

乙巳の変により蘇我氏を滅ぼし

・鎌足と共に大化の改新を実行する

公地公民の制定

国郡制度の制定

(豪族を貴族にし朝廷の役人として群を収める)

班田収授の制定

税制度の実施(祖・調・庸)

・全国的な戸籍   庚午年籍  の制定

白村江の戦い(唐に惨敗する)

 

「秋の田の刈穂のいほの苫をあらみ我衣では露に濡れつつ」

 

 

天智天皇陵

〒607-8425 京都府京都市山科区御陵上御廟野町

 

672年 弘文天皇(第39代)/大友皇子

父)天智天皇・母)伊賀宅子娘(いがのうねめ)

正妃)十市皇女(天武天皇の娘)

子)葛野王(かどののおう)

妃)藤原耳面刀自(みみもとじ・藤原鎌足の娘)

子)壱志姫王(いちしひめのおおきみ)

 

672年 天智天皇崩御後

大友皇子が弘文天皇として即位し

その後まもなく壬申の乱が起きるのですが

 

日本書紀によれば

大海人皇子を危険視した大友皇子側が

天智天皇の陵を作るため農民を集めている

と見せて実は兵を集めているという情報が

吉野の大海人皇子の元に届きます。

それを受けた大海人皇子は

共を連れて吉野を出発‥

吉野から伊賀~桑名~不破と廻りながら

天智天皇の政治に不満を持つ地方豪族

(兵)を集め近江に向かいます。

同時に大友軍が兵を集められない様に

街道の要所に味方を先回りさせ

兵を集める為に派遣された大友軍の使者を止め

兵を集めるのを阻止します。

一方大海人軍は東国より数万の大軍を集め

近江に向かうと大友軍から寝返る者も出はじめ

1か月余りで勝敗を決し

大友皇子を自害に追込みます。

(壬申の乱)

 

しかしこの壬申の乱には別の見方があります。

大海人皇子は天智天皇の強引な改革により

豪族達の不満がたまっている事を知っていた為

天智天皇の皇位継承の要望を受けず

一旦退き 機が熟すのを待ったのでは。

そして当時半島における唐と新羅の戦で

唐が苦戦し倭国に援軍・武器・食料を送るよう

使者を向けて来た事。

白村江での敗戦以降天智天皇の外交方針は

唐とも新羅とも一定の距離を置き対応しつつ

中立を保つ事でしたが

大友皇子は百済難民の側近を抱えていた為

唐寄りの進言をすることが予想されました。

大友は唐にに武器・食料を送るなど

唐寄りに思われる対応を見せていました。

唐からの要求が強まり戦に巻き込まれると

白村江の戦いの二の舞になる恐れがあるので

それだけは避けたかった大海人皇子は

大友皇子の外交方針を知った事で

戦を仕掛ける決意し準備をしていたのではないか

ということです。

 

 

弘文天皇陵

〒520-0037 滋賀県大津市御陵町3−1

 

673年 天武天皇(第40代)/大海人皇子

父)舒明天皇・母)皇極・斉明天皇

皇后)鸕野讃良皇女(うののさらら・持統天皇)

子)草壁皇子(皇太子/文武天皇の父)

妃)大田皇女(天智天皇の娘)

子)大来皇女(伊勢神宮の斎王に)

子)大津皇子

妃)大江皇女(天智天皇の娘)

子)長皇子

子)弓削皇子

妃)新田部皇女(天智天皇の娘)

子)舎人親王(淳仁天皇の父)

夫人)氷上娘(ひがみのいらつめ/鎌足の娘)

子)但馬皇女(高市皇子妃)

夫人)五百重娘(いおえのいらつめ/鎌足の娘)

子)新田部親王

夫人)大蕤娘(蘇我赤兄の娘)

子)穂積皇子

子)紀皇女

子)田型皇女

嬪)額田王(ぬかたおおきみ/鏡王女の母)

子)十市皇女(大友皇子妃)

嬪)尼子姫(天智天皇の娘)

子)高市皇子(長屋王の父)

嬪)カジ媛娘

子)忍壁皇子

 

673年 大海人皇子は都を飛鳥に戻し

飛鳥浄御原宮を建て天武天皇として即位します。

そして天智天皇に続いて

天皇を中心とした国作りを始めます。

 

679年 天武亡きあと皇子同士の争いを恐れた

天武天皇と皇后は皇子6人を連れ吉野宮へ行き

*天武の子:草壁・大津・高市・忍壁皇子

*天智の子:川島皇子・志貴皇子

吉野の盟約を立てさせます。

これは第一後継者を天武と皇后の子

草壁皇子とし皇子同士の争いをしない事

を誓わせたものです。

 

681年 天武天皇は律令を定める旨を発表し

同時に草壁皇子を皇太子にします。

また683年には有能な大津皇子にも

執政をとらせる様にします。

685年から天武天皇は病を患い

皇后と草壁皇子が事実上の執政を司ります。

 

686年 天武天皇は病に伏せ同年崩御。

同年 川島皇子の密告により大津皇子が

謀反の意志ありとされ捉えられ自害しますが

真相は明らかではありません。

病弱であった草壁皇太子に対して

皇太子と同じく執政を司っていた大津皇子は

文武に優れ有能で人望も厚かった為

何者かの策略に落ちた可能性もありますね。

 

689年 皇太子の草壁皇子も病死します。

 

業績

673年 公地公民を徹底(豪族支配地の排除)

皇親政治の実施

(政務を大臣:豪族でなく皇族に就かせる)

677年 高市大寺を大宮大寺(大安寺)と改める

680年 薬師寺建立(皇后の病気平癒を祈願)

681年 古事記/日本書記を作成

(稗田阿礼:ひえだのあれ/舎人親)

684年 八色の姓の制定

(豪族を8つの姓に分け氏姓制度の再編を行う)

689年 飛鳥浄御原令の発布(皇后)

日本を国号とし天皇を称号と定めた

白鷗文化(仏教芸術)が栄える

 

天武・持統天皇陵

〒634-0145 奈良県高市郡明日香村大字野口

 

690年 持統天皇(第41代)/鸕野讚良(うののさらら)

父)天智天皇・母)蘇我遠智娘(そがおちのいらつめ)

夫)天武天皇

子)草壁皇子

 

天武天皇妃/天智天皇の娘/太田皇女の妹

 

685年 天武が病を患うと草壁皇子と共に

事実上の政務を執る様になりましたが

草壁皇太子が病で亡くなった為、その子

珂瑠皇子(文武天皇)が即位出来る年になるまで

天武天皇の後を継ぎ即位します。

持統天皇は天武天皇の政策を引継ぎ

飛鳥浄御原令の制定と藤原京造営

完成させました。

この時太政大臣として高市皇子を任命し

高市は重臣として持統政権を支えました。

またこの頃から藤原鎌足の子で

草壁皇子に仕えていた

藤原不比等が頭角を現してきます。

 

業績

飛鳥浄御原令を制定

藤原京造営

薬師寺を完成させる。

 

「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山」

 

持統天皇陵

天武天皇陵と同じ

 

 

697年 文武天皇(第42代)/珂瑠皇子

父)草壁皇子(天武天皇・持統天皇の子)

母)阿閇皇女(天智天皇の娘/元明天皇)

夫人)藤原宮子(藤原不比等の娘)

子)首皇子(聖武天皇)

 

天武・持統天皇の孫として15歳で即位

持統上皇が太上天皇として政務を補佐

 

701年 大宝律令を公布

正式に日本の国号を定める。

 

707年 首皇子(聖武天皇)7歳の時

病で崩御します。

 

業績

大宝律令公布(日本の国号が定められる)

 

文武天皇陵

〒634-0144 奈良県高市郡明日香村大字平田410−1

 

 

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