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奈良時代の歴代天皇!!

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奈良時代(710年~794年)の歴代天皇

 

707年 元明天皇(第43代)女性

藤原京・平城京

715年 元正天皇(第44代)女性

平城京

724年 聖武天皇(第45代)

平城京・恭仁京・難波京・紫香楽京・平城京

749年 孝謙天皇(第46代)女性

平城京

758年 淳仁天皇(第47代)

平城京

764年 称徳天皇(第48代)=孝謙天皇女性

平城京

770年 光仁天皇(第49代)

平城京

781年 桓武天皇(第50代)

平城京・長岡京・平安京

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

707年 元明天皇(第43代)/阿閇皇女

父)天智天皇・母)姪娘-めいのいらつめ

夫)草壁皇子(天武・持統の皇子)の正妃

子)氷高内親王/元正天皇(第44代)

子)珂瑠皇子/文武天皇(第42代)

子)吉備内親王/長屋王妃

孫)首皇子/聖武天皇(第45代)

 

天武天皇(第40代)・持統天皇(第41代)の後

夫・草壁皇子との長男である珂瑠皇子が

文武天皇(第42代)として即位しましたが

25歳で亡くなります。

文武天皇の第1子・首皇子(聖武天皇)が

まだ7歳と幼かった為中継ぎとして

皇太妃であった元明天皇が即位しました。

 

業績

・708年 和同開珎を発行する

・710年 藤原京から平城京への遷都

・712年 「古事記」を完成させる

・713年 「風土記」を完成させる

 

元明天皇陵

〒630-8104 奈良県奈良市奈良阪町2793

 

 

715年 元正天皇(第44代)/氷高内親王

父)草壁皇子・母)元明天皇

独身

文武天皇の姉

長屋王の義理姉

 

皇太子である  甥)首皇子/聖武天皇(第45代)

がまだ若かった為、中継ぎの中継ぎとして

母)元明天皇の後を継ぎ 元正天皇(第44代)

として即位。

「続日本記」に元明天皇譲位の際の詔には

慈悲深く、落ち着いた人柄であり

あでやかで美しい人

と記されています。

 

業績

・718年 養老律令を制定(藤原不比等)

・720年 日本書紀を完成させる(舎人親王)

・723年 三世一身法を制定

 

元正天皇陵

〒630-8104 奈良県奈良市奈良阪町2648

 

 

724年 聖武天皇(第45代)/首皇子

父)文武天皇・母)藤原宮子/藤原不比等の娘

皇后)藤原光明子(光明皇后)/藤原不比等の娘

子)阿部内親王(孝謙天皇/称徳天皇)

子)基皇子(1歳で亡くなる)

妻)縣犬養広刀自

子)安積親王(阿部仲麻呂に暗殺される)

子)井上内親王(光仁天皇妃)

子)不破内親王

 

奈良時代を象徴する天皇と言っていいでしょう

文武天皇・藤原宮子の第一子として生まれました

が7歳の時、父・文武天皇を亡くし

母・宮子も同時に精神的障害を患い37歳まで

会うことが出来ませんでした。

幼少の頃は藤原不比等邸で不比等の娘の光明子

と共に不比等の妻・縣犬養美千代に育てられ

14歳で皇太子に、その後光明子を妃とし

24歳で皇位継承し聖武天皇として即位します。

 

即位当時は藤原不比等没後で

父・文武天皇の従妹に当たり、周りから

人望も厚かった長屋王が政権を担当。

若い聖武天皇は

思うように政治を司れませんでした。

また光明子に中々男子が出来ない為

天皇との姻戚関係が薄れるのを焦燥した

不比等の子・藤原四兄弟は

聖武天皇妃・光明子を皇后にする様

働きかけますが当時立后は

皇族からされれるのが慣習だった為

長屋王に反対され立后を阻止されます。

729年 長屋王が目障りな藤原四兄弟は

聖武天皇の第一子・基皇子が亡くなったのは

長屋王の呪術によるものという濡れ衣を着せ

自害に追込みその後、妹・光明子を

皇后にすることに成功します。

(長屋王の変)

 

しかしその後735年から737年にかけて

九州から発生した天然痘が全国に広がり

平城京内でも藤原4兄弟をはじめ

執政官僚の多くが感染し亡くなります。

藤原4兄弟が亡くなると政治の主導権が橘諸兄と

唐で政治や軍事を始め様々な学問を納めて来た

遣唐使留学生の玄昉と吉備真備が橘諸兄を補佐し

台頭してきます。

740年 これに不満を持ったのが藤原宇合の子

で九州大宰府に左遷されていた藤原宏嗣です。

玄昉と吉備真備を追放する様天皇に上奏し

九州で兵を上げますが

橘諸兄はこれを謀反とし九州に兵を送り

宏嗣を制圧し処刑します。

(藤原宏嗣の乱)

 

藤原宏嗣が九州で兵を上げたとき聖武天皇は

突然関東(伊勢・美濃)への行幸を始めます。

その理由は明らかになっていませんが

次の様な説が上げられています。

 

①藤原宏嗣の乱から逃れる為東へ逃れた。

②藤原氏が政権を握っている平城京から

逃れたかった。

③免罪で長屋王一族を殺してしまった苦悩から

旅に出て気持ちを整理したかった。

④治世が収まらないのは自分に徳が無い為

偉大な祖父天武天皇が壬申の乱で行軍したコース

をたどり祖父の強い意志と実行力を感じ

これから自分の行うべき事を考えたかった。

 

そして伊勢-近江とめぐり恭仁京で

遷都宣言をします。

また世の中の混乱は自分の信仰が足りない為

だと考え仏教への信仰をより深くしていきます。

 

同年 聖武天皇と光明皇后は河内国の知識寺で

「華厳経」の教えを基に信者達により造立され

信仰されている美しい廬舎那仏像を見て

深く感動を覚えました。 そして

華厳経の教理を学び、民間の力を合わせ

廬舎那大仏を創ることで国家安泰を図りたい

という想いが大仏を創る構想に至りました。

 

741年 国分寺・国分尼寺建立の詔を恭仁京で

発し同時に近江紫香楽宮の建設を開始します。

743年 紫香楽宮で知識寺同様の寄付による

大仏造立を行おうと大仏造立の詔を発します。

744年 今度は難波宮に行幸し遷都を宣言

同年 縣犬養広刀自との子

安積親王を亡くし

同年 紫香楽宮で大仏造立に反対の人々が

山を焼き大仏造立が頓挫。

745年 には大地震勃発三日三晩に及びついに

同年 平城京に戻ることを決意

747年 東大寺の地で再度大仏造立を試みます。

 

749年 心労が重なった聖武天皇は皇位を

娘の阿部内親王に譲り出家します。

752年 に大仏開眼会に立ち会い

756年 崩御します。

 

業績

・第3回遣唐使を送る

・大官大寺を大安寺とし移築する。

・東大寺を建立し大仏造立の詔を発す

・唐の高僧を日本に連れて来る様伝える

・墾田永年私財法制定

 

聖武天皇陵

〒630-8113 奈良県奈良市法蓮町1224

 

 

749年 孝謙天皇(第46代)/阿部内親王

父)聖武天皇・母)光明皇后

独身

自分を挟んで政権争いをする藤原氏と反藤原勢力

による反乱・策略・暗殺

度重なる天災や飢饉・天然痘の流行などで

心労が重なり病に倒れた聖武天皇は

娘の阿部内親王(孝謙天皇)に皇位を継承し

上皇となります。

即位後しばらくは光明皇太后が後見し

実政では皇太后の甥・藤原仲麻呂が台頭します。

父・聖武天皇崩御の際、新田部親王の子

道祖王を皇太子とする旨を遺言を残しますが

後日孝謙天皇は

皇太子にふさわしくない行動があるとして

群臣を集め皇太子を排し代わりに

仲麻呂の推薦で大炊王を皇太子にします。

仲麻呂は以前より次の皇位継承者候補として

大炊王に目を付け、仲麻呂の長男(故人)

の未亡人・粟田諸姉を大炊王の妻に進め

仲麻呂の私邸に住まわせるなど

関係を深めていたのです。

 

藤原仲麻呂の台頭に焦燥した反藤原の

橘奈良麻呂・大伴古麻呂らは

孝謙天皇を排する反乱を起こそうとしますが

仲麻呂に阻止されるという事件が起こります。

(橘奈良麻呂の乱)

仲麻呂はこの乱を抑えた事で太政官の座に就き

実質上の最高権力者となります。

 

758年 孝謙天皇は病気の母・光明皇太后の

看病を理由に大炊王(淳仁天皇)に

皇位継承し上皇となりました。

 

業績

・第4回遣唐使派遣(吉備真備ら)

・鑑真和上を来日させる

・東大寺廬舎那大開眼会を行う

 

孝謙・称徳天皇陵

〒631-0803 奈良県奈良市山陵町85

 

 

758年 淳仁天皇(第47代)/大炊王

父)舎人親王(天武天皇の子)「日本書紀編集」

母)当麻山背

妻)粟田諸姉(藤原真従の未亡人)

子)阿部内親王/山於女王

 

天武天皇の孫でありながら

3歳で父を亡くした事から官位を受けておらず

注目されていませんでしたが

藤原仲麻呂の推挙により立太子し

皇位を継承しました。

 

仲麻呂は傀儡の淳仁天皇のもと

右大臣となり実権を振るうようになり

それまで天皇にしか許されなかった

貨幣の製造や利子をつけた賃借の権利

を得、藤原恵美押勝の名を賜与され

私印を用いる事も許されます。 また

759年 には大規模な新羅征伐の準備を計画

しますがこの遠征は孝謙上皇により阻止。

 

760年 には皇室外で初の太政大臣=

最高執政者となりますが

同年後ろ盾であった光明皇太后が亡くなり

風向きが変わってくるのです。

 

761年 仲麻呂は淳仁天皇と孝謙天皇を

近江の保良宮に移らせ平城京の改修を行います。

今の淳仁天皇と仲麻呂の政治が父・聖武天皇の

想いに沿ったものなのか? 疑問を抱きながら

保良宮で孝謙上皇は病に伏せます。

そこへ看病禅師・弓削道鏡が看病に当たり

孝謙上皇の病を治したことから道鏡を

寵愛するようになりさらに道鏡の教養/

博学さに熱く信頼を置くようになります。

 

孝謙上皇と道鏡の親密な関係を危惧し

仲麻呂が淳仁天皇を通じて2人の関係を

諫めると孝謙上皇は激怒し

平城京改修後淳仁天皇は平城宮に戻りますが

光明皇后は出家し法華寺に移り

淳仁天皇・恵美押勝と距離を置き

通常の小さな政は淳仁天皇が

国家の大事である政務は自分が行う

宣言します。

 

その後吉備真備・道鏡など孝謙派が要職に就く

一方仲麻呂派は朝廷内での勢力を弱めて行き

764年 ついに仲麻呂は軍事準備を始め

孝謙上皇との間で戦闘が起きます。

(藤原仲麻呂の乱)

吉備真備ら孝謙上皇軍は仲麻呂軍を破り

仲麻呂は殺害。

淳仁は天皇を廃され大炊親王として

淡路島に流刑となります。

 

淳仁天皇陵

〒656-0514 兵庫県南あわじ市

 

 

764年 称徳天皇(第48代)=孝謙天皇

淳仁天皇の廃位により孝謙上皇は

称徳天皇として再度即位します。

 

称徳天皇は弓削道鏡と共に再び

父)聖武天皇から託された仏教の興隆

仏教の倫理・理念を活かした理想的な政治

を目指して動き出します。

 

765年 称徳天皇は父・聖武が建てた東大寺

に対し平城京の西に国家の安泰と平和を願い

西大寺を建立

766年 には道鏡を法王とし僧侶のトップ

天皇と並ぶ地位と権威を与え

孝謙天皇x道鏡 の二頭体制を確立します。

 

769年 大宰府の主神から九州宇佐八幡宮より

「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」との

信託(神のお告げ)があったと伝えられ

(宇佐八幡神託事件)これを確かめるべく

和気清麻呂を宇佐八幡宮に送りますが

清麻呂はこの託宣は虚偽であったと報告し

孝謙天皇はこれに怒り清麻呂を左遷しますが

自分の気持ちの中にもあった道鏡を天皇にする

という事の重大さを改めて考え直し

貴族たちとの信頼関係を築き直します。

 

770年 称徳天皇は病を発しそのまま崩御

しますが看病には女官の吉備真備の妹のみで

道鏡は崩御まで会えなかったそうです。

 

称徳天皇崩御後、道鏡は栃木の下野薬師寺に

左遷されそこで生涯を閉じます。

 

業績

・765年 西大寺建立

 

 

770年 光仁天皇(第49代)/白壁王

父)施基親王/志貴皇子(天智天皇の第7皇子)

母)紀橡姫(太政大臣・紀諸人の娘)

皇后)井上内親王(聖武と縣犬養広刀自の娘)

子)酒人内親王

子)他戸親王

妻)高野新笠

子)山部王(桓武天皇)

子)早良親王

天智天皇の孫

 

称徳天皇崩御の際

左大臣・藤原永手/右大臣・吉備真備ら

参議らが協議し藤原百川の強い推挙で

皇太子に立てられ

崩御後 62歳で光仁天皇として即位します。

 

藤原百川(藤原宇合の8男)の思惑は

聖武-孝謙-(淳仁)-称徳と続いた

仏教と強く結びついた天武系の天皇の継承を絶ち

仏教との繋がりの弱い天智系を立てる事でした。

 

しかし光仁天皇の皇后は井上内親王

(聖武天皇の娘)で2人の間には他戸親王

がいた事からこの2人を排しもう1人の妻

高野新笠との子・山部親王(桓武天皇)を

皇太子にしたかったのです。

 

即位後 光仁天皇は井上内親王を皇后に

他戸親王を皇太子に立てますが

皇后の井上内親王が光仁天皇を呪詛(じゅそ)

したという密告を受け皇后と他戸皇太子を

排し翌年773年に山部親王(聖武天皇)を

皇太子に立てることに成功します。

また同年光仁の同母姉・難波内親王が死去

これも井上内親王の呪詛の為と罪を着せ

井上内親王・他戸親王は

大和国宇智郡(奈良県五條市)に幽閉され

その後亡くなります(暗殺説もあり)

 

この事件の後

藤原百川と共に光仁天皇即位を図った

藤原蔵下麻呂が急死したことから

井上内親王の祟りと恐れた光仁天皇が

それを収める為秋篠寺が建立されました。

 

その後も

777年 光仁天皇が病に伏せる

同年 山部親王も生死をさまよう大病を患う

同年 雨が降らず井戸や河川が枯れはてる

などの事象が起きたことから

井上内親王の祟りであると考え

遺骨を改葬し正式に墓を整備・弔いました。

 

業績?

・秋篠寺建立

 

光仁天皇陵

〒630-2173 奈良県奈良市日笠町87

 

 

781年 桓武天皇(第50代)/山部親王

父)光仁天皇・母)高野新笠

皇后)藤原乙牟漏(百川の兄・藤原良継の娘)

子)安殿親王(平城天皇)

子)神野親王(嵯峨天皇)

 

妻)酒人内親王(異母妹)

子)朝原内親王

 

妻)藤原旅子(藤原百川の娘)

子)大伴親王(淳和天皇)

 

妻)藤原吉子

妻)多治比真宗

妻)藤原小屎

 

父・光仁天皇が70歳を超え病と心身の衰えを

覚えると譲位され桓武天皇として即位します。

即位後すぐに同母弟の早良親王を皇太子にし

同年光仁太上天皇は崩御します。

784年

桓武天皇は仏教勢力が強い平城京から離れ

より水運の便が良い山背国・長岡に遷都を

決めます。

785年 長岡京の工事責任者の藤原種継が

何者かによって殺害され天皇は犯人を究明

するとその中に早良親王の名がありました。

同年 早良親王を藤原種継暗殺の罪により

皇太子を排し流罪にしますが無実を主張する

早良親王が抗議の為絶食で死去。

その後安殿親王(平城天皇)を皇太子に

定めます。 しかしその後

桓武の母や妃が次々と亡くなり皇太子も病になり

また疫病や洪水が頻発するなど不幸が止まない為

早良親王の怨霊のためだと考えた桓武天皇は

墓を整え魂を鎮める儀式を行いますが

状況は好転しません。

これら不幸の原因は天皇の徳が無いからだと

民衆に噂されるのを恐れたのと

側近・和気清麻呂の勧めもあり

もう1度遷都し治世の再開を決意します。

 

794年 西に桂川・東に鴨川を挟む京の地に

唐の長安を模した平安京を築き遷都します。

 

業績

・長岡京遷都

・平城京遷都

 

桓武天皇陵

〒612-0855 京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎

 

 

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